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第十一回〜第二十回

第三十回「〜第1回 史上最大 こうして城壁は築かれた〜 シリーズ万里の長城」(2006/1/12)

今週の世界遺産は中国の万里の長城。2回にわたって放送されるうちの1回目だそうだ。

万里の長城は、秦から漢、金、明朝にわたり、遊牧民族に対する防壁として築かれた。3500キロメートルもの長さがあり、その姿は宇宙からも見ることができると言う。日本列島と大体同じ長さである。 長城の東端は海に突き出しており、老竜頭と呼ばれる。また所々に関所があり、とりわけ堅牢な砦として作られている。 これだけ長いと守るのも大変そうな気もするが、しかし確かに騎馬兵の機動力が主力の遊牧民族には効果的な守りだったのかもしれない。

長城が築かれ始めた秦王朝、2200年前の長城は、石を積み上げただけの貧弱なものだった。秦の始皇帝は、北の遊牧民族を国内に人間と意図的に分けることで、国内の統一を図ったのではないかと言われている。 万里の長城が争いによって生まれたというよりも、長城が争いを生んだと言える一面もあるかもしれない。


第二十九回「〜太古の草原は夜輝く〜 ブラジル・セラード」(2005/12/22)

今週はブラジルのセラード。乾ききった広大な草原には、様々な特有の生物が生息している。 中でも、高さ2メートルを超えるシロアリの蟻塚は実に2万5千以上もあるそうだ。蟻塚はまた、アリツカゲラというキツツキの仲間の巣になったり、アリクイの餌場となったりする。 アリクイは顔が細長く、とても面白い姿をしている。

10月になり乾季が終わると、蟻塚に変化が訪れる。夜になると緑色の光がちりばめられるのだ。 これは、蟻塚に穴を掘って住んでいるヒカリコメツキムシの幼虫が放つ光である。不思議で綺麗な光景だが、実際は幼虫が虫を誘き寄せて食べるための光だ。

雨季になると、セラードでは連日雷が鳴り続け、落雷によって燃え上がることもよくある。 しかし、セラードに生える木は火事でも生き残る術を持っている。火事でも燃えない厚い皮を持っていたり、燃えにくい粉を皮にまぶしていたり。更には火事によって種を生み出す植物までいる。

セラードは大陸が繋がっていた時代からずっと赤道近くに位置してきた。長い歴史によってこれらの生物が生まれたのだ。


第二十八回「〜断崖の聖堂 はるかなる祈り〜 ギリシャ・メテオラ」(2005/12/15)

ギリシャはメテオラ。断崖のてっぺんに建てられた修道院が今回の世界遺産。 でもよそ事しながら観ていたので内容あまり覚えてない…。


第二十七回「〜とんがり屋根の不思議な街〜 イタリア・アルベロベッロ」(2005/12/8)

今週はイタリアのアルベロベッロ。変な名前の街だ。トゥルッリと呼ばれる、石だけで積み上げられた円錐形の屋根を持つ家で有名である。建設されたのは17世紀の中頃。 今年三月には、合掌造りが世界遺産となった日本の岐阜県白川村と姉妹都市になったそうだ。

450平方メートルの土地に1500のトゥルッリがひしめいている。 一軒の家の部屋ごとにそれぞれとんがり屋根があり、それぞれがくっついて一つの屋根になっている。 屋根から壁、外壁と内壁に塗る塗料まで、全て石灰岩でできている家だ。 石の積み方にも工夫が凝らされた、建築学的にも優れた建物だそうである。

ただ、明るい歴史だけではないそうだ。 かつてアルベロベッロの原型となる集落を築いた、当時の統治者であるジャンジローラモという伯爵がいた。 かれは低い税率で人々を集め、トゥルッリを密集させて人々を住まわせてアルベロベッロの原型を作った。 しかし、厳しい制度や罰によって人々を圧政し、都から役人が来ると知ると、税収をごまかすためにトゥルッリの破壊すら命じたそうだ。

19世紀になると、人々は北の豊かな地方へと移り住んで行った。アルベロベッロでも、多くの人が故郷を離れ、街には老人ばかりとなった。 でも街には暖かい付き合いがあり、分け与えの精神が宿っている。 便利さを求めることは自然なことだと思うけれど、謙虚さを失ったものには美しさは感じられなくなる。そんなことを思った。


第二十六回「〜悠久の大地 深紅のワイン〜 フランス・サンテミリオン」(2005/11/17)

今週は、フランスのサンテミリオン。言わずと知れたワインの産地だ。 このワインを生み出すブドウ畑を含む地域全体が世界遺産になっているそうだ。

ワインの飲み頃は醸造されてから半世紀以上経ってから、というのはざらにある。150年経ってもまだ若いというものもある。 作った人間が、そのワインが飲まれる時には生きていないというのも、なかなか妙な感じだ。 地元の食堂では、テーブルにつくと水代わりにワインが出されるそうだ。しかも飲み放題。そんなだと、ワインの味にはうるさくなるんだろうな。

もともとワインは紀元前1500年ほど前にエジプトで既に作られていた。その後、神聖ローマ帝国の領土拡大に従って地中海からヨーロッパ各地へとワイン作りが広がっていき、サンテミリオンでは紀元後1世紀くらいから作られ始めた。

良いワインを作るには土が重要。それも、栄養の「少ない」土のほうが、より良いワインが作られるそうだ。 石灰質や砂地などの栄養の少ない土では、ブドウの木は実を少なく小さくし、その分味が濃縮された実ができるのである。 またこの土の性質によってブドウの味が全く異なる。 土や日当たりなどによって、畑ごとにブドウの味が異なってくることを「テロワール」と呼ぶ。このテロワールごとに、そこからできたワインに合った樽を用意しなければならないそうだ。

ワインの収穫には、地元のワイン好きたちも手伝いに来る。収穫の後には、ワインの木で焼いた鴨肉とワインでみんなで食事をする。 こうやって、サンテミリオンの1000にものぼるシャトーは守られてきたのだろう。

しかし、ワインの銘柄としての「サンテミリオン」には審査に認められることが必要である。1000のシャトーの中で、サンテミリオンとして認められているのは現在68のシャトーなのだそうだ。 これも毎年見直されており、きっと手を抜いたワインを造ればあっという間に落とされるのだろう。 またその下にもまだランクがある。多くのシャトーが互いの味を競い合ってできるだけ上のランクを目指し、サンテミリオンの格付けに近付こうとするのだ。 世に出ているワインの裏には過酷な競争があるということだ。

フランスには、子供の誕生した年のワインをとって置き、誕生日ごとに開けて、子供の成長と共にワインの成長を楽しむという風習があるそうだ。 ワインと人々との歴史を考えると、とても素晴らしい風習だと思う。


第二十五回「〜栄光への殿堂〜 イギリス・ウェストミンスター宮殿」(2005/11/10)

今週はイギリスはロンドンのウェストミンスター宮殿。11世紀に建てられ、何度も改築されてきた歴史ある建築物だ。 そばにあるウェストミンスター修道院、セントマーガレット聖堂もやはり世界遺産に登録されている。

高さ96メートルの巨大な時計塔、有名なビッグベンはこのウェストミンスター宮殿にある。 ビッグベンとはもともと、時計塔のてっぺんにある直径3メートルの巨大な鐘につけられた名前だ。 19世紀、まだ誰も腕時計を持っていない時代に、このビッグベンの音色はロンドン庶民の生活に欠かせない存在だったそうだ。

ウェストミンスター宮殿はもともと国王の住まいとして建てられたものだ。16世紀からは国会議事堂として使用され、それは現在もなお続いている。 こういう歴史のある建物が現在も実用的に利用されているというのは、その国そのものから受ける雰囲気にも大きく影響しそうだ。 議員たちの意識にも少なからず影響するのではないだろうか。

13世紀、イギリス国王ヘンリー三世は自らの野心のために圧制を強いた。これに反発した貴族たちが、シモン・ド・モンフォールのもとに立ち上がり、国王に対して議会を設けるように要請した。 そうしてウェストミンスターホールで開かれたのが、最初の議会だったそうだ。

かつてのイギリスは、羊毛によって支えられていた。「イギリスの富の半分は羊の背に乗っている」という言葉もあったくらいだ。 羊毛によって財を蓄えた人々が現れ、彼らは「ジェントリ」と呼ばれた。国王は彼らの財を羊毛税によって徴収しようとし、それに反発したジェントリたちはやはり国王に対して羊毛税の撤廃を要求した。 これらの活動によって、上院である貴族院の他に、下院である庶民院ができた。二院制の誕生である。

19世紀にウェストミンスター宮殿は火事によって焼け落ちた。折りしも産業革命の真っ只中だったイギリスは、その技術をもって宮殿を再建したのだが、この時にビッグベンが建てられた。 ビッグベンの建設も下院議院によって審議されたのだが、このときの議員の一人であるベンジャミン・ホールの名前をとって「ビッグベン」と名付けられたという説もあるという。

ビッグベンの時計は150年間動き続け、いまだに手動ねじ巻き式である。したがって、現在は七代目の時計守が毎日時計の面倒を見ている。


第二十四回「〜西洋の面影 東洋の窓〜 中国・マカオ」(2005/10/20)

今週は今年の夏に登録されたばかりの世界遺産、中国のマカオ。 一見して近代的な都市で、ビルが立ち並んでいる。カジノで有名な都市でもあるそうだ。 勿論、世界遺産として登録されるくらいだから、文化的な建築物が多く存在する都市でもある。

かつて「アジア一美しい教会」と呼ばれた聖ポール天主堂。現在は火事で焼け落ち、高さ19メートルにもなる壁だけが残っている。そびえ立つ壁は圧巻である。

マカオにはポルトガルの文化が混じっている。16世紀半ば、ポルトガルの船がマカオにやってきて、マカオにポルトガルの文化をもたらしたのだ。 またそのポルトガル人たちはマカオの女性と結婚し、現在でもポルトガルと中国の血が混じった「マカイエンサ」と呼ばれる人々が1万人ほど住んでいる。

カルタやたばこ、パン、カステラなど、現在日本にある南蛮渡来のものは、マカオから持ってこられたそうだ。全てポルトガル語なのだとか。たばこもポルトガル語なんだ。 また、日本からは、豊臣秀吉や徳川家康によって弾圧され日本を追われたキリスト教徒たちがマカオにやって来た。ここで、キリスト教徒たちは信仰を貫いたのだ。 先の聖ポール天主堂も、日本のキリスト教徒たちを含めて建設したものなのだそうだ。

17世紀、日本が鎖国によって貿易を禁じると、最大の貿易相手国を失ったマカオは衰退していった。 その後、貿易のためにイギリスがやってきて、戦争によってイギリスが香港を獲得して活動拠点をそこに移すと、マカオの人口は更に減っていった。 貿易拠点としての役割を失ったマカオは、ギャンブルを公認し、カジノやドッグレースなどのギャンブル産業によって盛り返してきた。 現在のマカオでは、カジノディーラーを養成する学校が、政府のもとで建てられていっているそうだ。

1999年、マカオはポルトガルから中国へ返還された。


第二十三回「〜北の都 皇帝たちの夢〜 ロシア・サンクトペテルブルク」(2005/10/13)

今週はロシアの古都、北のヴェネツィアとも言われる都市サンクトペテルブルク。言われるだけあって、運河の街らしく街には多くの運河や川が流れている。 街中には、かつてロシア皇帝が築いた様々な宮殿が建ち並んでいる。ロシアという広い大地を持つからか、スケールの大きな建物が並ぶ街だ。 またエルミタージュ美術館には、ロマノフ王朝の皇帝たちが集めた様々な美術品が展示されている。

サンクトペテルブルクは、ピョートル大帝によって湿地帯に築かれた都である。街の下には水を多く含む泥土の地層が現れる。 ピョートル大帝は若い頃から科学や技術に興味を持ち、西欧諸国を巡り、時には自ら造船所で働くなどして、ロシアの技術の遅れを痛感したのだそうだ。 ロシアの近代化のため、自ら陣頭指揮をとって、何も無い軟弱な地盤を持つ土地に土台を築き、建物を建設し、10年の歳月をかけて王朝の都サンクトペテルブルクが誕生したのだ。 ただ、その間寒さと飢えのために10万とも20万とも言われる人々が死んでいったことを忘れてはいけないのだろう。

都完成を記念して建設された「夏の宮殿」には、数多くの様々な噴水がある。ポンプもモーターも使わず、高低差により生じる水圧だけを利用して、様々な仕掛けを持つ噴水を作り上げた。 洗練され、とても18世紀初頭に作られたとは思えない規模と技術を持つ噴水である。

サンクトペテルブルクの黄金期を作った女帝エカテリーナ2世は、地方貴族の生まれながら、32歳で夫に政治能力が無いと気付いて自ら帝位に着いた女傑である。 美術品や財宝を集め、富を蓄え、ヨーロッパから注目される文化を築いた。 しかしそれは、力の無いものを力で押さえつける専制政治の始まりでもあった。その後100年続いた専制政治の後、ロシア革命によって王朝は滅んだ。 「冬の宮殿」として皇帝を主にしていたエルミタージュ宮殿は、こうしてエルミタージュ美術館となった。

ロマノフ王朝が滅び、ソビエト連邦となったとき、サンクトペテルブルクの名前はレーニンからとられたレニングラードとなった。 しかし、ソビエト連邦の崩壊後、市民投票によって再びサンクトペテルブルクに戻ったのだそうだ。 この街に住む人々は、この街を作ったピョートル大帝を、そして街そのものを誇りに思っている。


第二十二回「〜風とともに大地に生きる〜 オランダ・キンデルダイクの風車群」(2005/10/6)

今週の世界遺産は、オランダ、キンデルダイクという地区にある19基の水車だ。 オランダと言えば水車、という連想は持っていたけれど、世界遺産だったとは知らなかった。

川沿いに大きな水車がずらっと並んでいる。250年間、変わらず回り続けているそうだ。なんとものどかな光景だ。 また、驚くことにこの風車は家になっており、風車守がここに住んでいるのだと言う。なんだか『風の谷のナウシカ』を思い出すな。 風車の中に住むと、風車の音が煩わしくならないのか、と思うのだけれど、中に住んでいる人は音どころか振動すらも暮らしの一部として受け入れ、楽しんでいるのだそうだ。

オランダの正式名称「ネーデルランド」とは、「低い土地」という意味。普通に川より低い位置に道路が通っていたりする。 風車は、この土地に溜まった水をくみ上げるために作られたのである。 オランダの歴史は水との戦いの歴史。「ワータースカップ」という、水害対策のための組織が選挙によって構成され、昔から人々を代表して治水を行ってきた。 そして、18世紀当時導入され始めてきていた風車を、特別低い土地であるキンデルダイクに建設した。

風車の羽は360度回転するようになっており、風車に住む風車守が風を読んで羽の向きを決める。 また、各羽に張る「帆」の長さを、風の強さを考慮して決める。4枚の羽全てが同じ張り方になるとは限らない。 なかなか奥が深い仕事のようだ。 スケールの大きさからゆったりと回っているように見える風車は、その実とても強く速く回る。

オランダと言えばまた、航海と貿易によって繁栄した国である。世界初の株式会社、東インド会社を創設し、また日本までやってきた。 しかしそんな海洋国家オランダの影でも、やはり風車が活躍していた。 それは製材用風車の存在。羽の回転を動力に動くノコギリで木を切る風車は、かつて人の手よりも大きな働きをした。 最盛期には400基以上も建設され、そして今もまだ動き続けているものがある。まさに風車の国だ。

産業革命以降、動力の主役が蒸気から電気へと変わっていくにつれ、かつて1万基も数えた風車はどんどんと捨てられていった。それも当然のこと。 キンデルダイクでも、水位を調節している主要施設は電気で動いている。 しかしそれでも、国の象徴たる風車を残そうと、キンデルダイクでは19基が現役で動いているのだ。 かつて戦争によってドイツに占領され、燃料が奪われていったとき、電力に頼らず動く風車によって水に沈まずに済んだオランダの土地。 その歴史を忘れず、例え疲労によって羽が折れても、忍耐強く風車を回し続ける。


第二十一回「〜サルが跳ねる巨大な針山〜 マダガスカル・ツィンギ」(2005/9/22)

今週は、珍しい生き物が生息する岩の針山がある、マダガスカルのツィンギ。何億年もの歳月をかけて作られた自然の構造物がある、厳正自然保護区ツィンギ・ド・ベマラハである。

ツィンギの岩山は本当に複雑な構造をしていて棘だらけ、まるで地獄の針山のようだ。「ツィンギ」は地元の言葉で「とがった先端」という意味らしい。 針山を叩くと高い澄んだ音を出す、神秘的な場所でもある。 この針山が、東京23区の倍以上の広さにまたがって存在しているのだから、自然の妙技には感心させられる。 ツィンギの針山を造ったのは、石灰岩の岩山に降った雨なのだそうだ。

ツィンギには、シファカと呼ばれる猿が生息している。針山をぴょんぴょんと跳ね回り、針山の中に点在する森を住処としているのだ。 この森には猿の他にも様々な動植物が生きている。さやの長さが1メートル以上もある豆など、不思議な世界に迷い込んだかのような錯覚を抱く。 カメレオンやカッコウ、コノハズクなど、マダガスカルに生息する8割の動物はマダガスカル固有なのだそうだ。

ツィンギの周りはサバンナで、乾燥した大地が広がっている。その中のツィンギだけが、森が存在するオアシスとなっている。ここに住む動物たちは、そこでしか生きていけず、だからこそ独特に進化していったのかもしれない。 この針山の麓には人も住んでおり、彼らもまたツィンギの恩恵を受けている。 針山の地下深く、50メートルも潜ったところには、豊富な水瓶が存在する。この水瓶が森を養い、人間を含む動植物たちを養ってきたのだ。

人間のスケールでは測れないこその自然遺産なのだと思わせるところだな。


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