ホームへ戻る
考えたこと、感じたことメモへ戻る
第一回〜第十回
第二十一回〜第三十回

第二十回「〜砂漠のマンハッタン〜 イエメン・シバーム」(2005/9/15)

間を空けてようやく二十回目の放送。今週は、砂漠に500年もたたずむ摩天楼都市、シバーム。街には、泥で作られた高層住宅が立ち並んでいる。

500棟もの建物、しかも泥だけで作られた建物がぎっしりと詰まっている街が、何も無い砂漠に突然現れる。なんとも不思議な光景だ。 女性は4階から上に住み、必ず黒い服を着てヴェールを身にまとう。イスラムの教えに従う街でもあるのだ。

と、見ている途中で寝てしまった。体調がよろしくないので今回はこの辺で。


第十九回「〜中世の輝き 永久の古都〜 スペイン・トレド」(2005/8/25)

今週は、スペインで中世時代に繁栄を誇った都、トレド。「乾いた大地」を意味するラ・マンチャ地方にある、皇居ほどの広さの都だ。

トレドの中央には、13世紀から200年以上かけて建てられたカトリック教会がある。一面を金で埋め尽くされた天井、精密な彫り物、一面の絵。 果たしてキリストはこんな華美に飾られることを喜ぶのだろうか、と思うほどの豪華さだ。

トレドでは、2000年前のローマ時代から、5世紀、11世紀など、様々な時代の遺跡が発見されるそうだ。 それぞれの時代で、それぞれの街が築かれたのである。 ここを支配した勢力も、ローマ王国、ゲルマン民族、イスラム教、キリスト教など、時代時代で移り変わっていく。 このことが、トレドの文化に独特な特色を持たせることになった。 土地を取り戻したキリスト教は、イスラムの優れた文化を目の当たりにし、それを取り込んでいったのだ。これは、カトリックの大聖堂に描かれている、イスラム文化でよく用いられる幾何学模様などに見られる。

トレドの古文書館には、アリストテレスの哲学書、ピタゴラスの数学書、ユークリッドの数学書など、様々な貴重な文献の写しが存在する。 この文献のアラビア語からラテン語への翻訳を行ったのが、言語に精通したユダヤ人。ユダヤ人がアラビア語からスペイン語に翻訳し、それをキリスト教徒がラテン語に翻訳したと考えられているそうだ。 そして、この貴重な文献が、学問の都として人々を様々な土地から呼び寄せるきっかけになり、トレドを繁栄させていった。

15世紀の末、カスティリャ王国が隣の国と合体し、スペイン王国が誕生する。そして、スペイン王国は求心力としてカトリックを取り込んだ。 カトリックはスペイン王国の中で増大し、ユダヤ教やイスラム教など、他の教義を認めずに迫害したそうだ。 その後16世紀、スペイン王国の首都がマドリッドへと移り、トレドはその繁栄の歩みを止めた。


第十八回「〜ハプスブルク 栄華の残照〜 オ−ストリア・シェーンブルン宮殿」(2005/8/4)

今週は、オーストリアはウィーンにある、かつて栄華を極めたハプスブルク家のシェーンブルン宮殿である。ベルサイユ宮殿と並んでヨーロッパを代表する宮殿で、シェーンブルンとは「美しい泉」を意味するらしい。 ウィーンは是非一度行ってみたいと思っていた場所だ。

シェーンブルン宮殿には1441もの部屋があり、華やかな装飾の施された調度品が立ち並ぶ。全く贅沢な宮殿だ。 また、日本や中国など東洋の絵が描かれた壁、中東の生活を描いた絵、アメリカ大陸で採れた材料で作られた装飾品など、内部は異国情緒溢れるものとなっている。 庭はとてつもない広さで、植物が豊かに育てられている。しかしそこには煩雑さはなく、秩序ある美しさを保っている。 また庭園には世界で初めて作られた動物園が存在している。

シェーンブルン宮殿を建てたのは、ハプスブルク帝国の女帝マリア・テレジア。この名前も有名なら、その娘マリー・アントワネットもまた負けじと有名である。 宮殿内に世界各国の情景を模させたのは、マリア・テレジアの野望が反映されているのだそうだ。

ウィーンと言えば音楽の街。かつてシェーンブルンには様々な音楽家が集い、ハプスブルク家に様々な演奏を披露していた。 今でも、シェーンブルン宮殿では音楽祭が開かれる。本当に、一度でもいいから行ってみたいものだ。

ハプスブルク家には、「幸せなオーストリアよ。戦争は他国に任せ、汝は結婚せよ」という家訓があったそうだ。婚姻政策によって国を繁栄させよ、ということだ。 マリー・アントワネットも、当然のように政略結婚で15歳の時にフランスはブルボン家へと嫁いだのだ。 このことが示すように、ハプスブルク家の帝王教育はとても厳しかったのだそうだ。例えば食事作法では、頭の上に本を一冊置き、両脇にやはり本を一冊ずつ挟み、それを落とさないようにスプーンでスープを口に持ってくる練習をしていたそうだ。

ハプスブルク帝国は、1918年に第1次世界大戦で敗戦することでその幕を閉じる。その後、シェーンブルン宮殿は住宅難に苦しむ人々に開放され、現在でも250世帯がそこに住んでいるそうだ。 宮殿に住むというのはどのような気分なのだろう。いや、やはりそこは「自分の家」なのだろう、きっと。


第十七回「〜砂漠にそびえた幻の都〜 ヨルダン・ぺトラ」(2005/7/28)

今週は2300年も前に栄えた都、ヨルダンのペトラ。かつて、インディ・ジョーンズで映画の舞台として利用されたこともある。 ずっと文献上だけに存在していた「ペトラ」という都が、探検家によって砂漠の真ん中に発見されたのが19世紀初頭。砂漠ではあるが、辺り中に岩山がそびえ立ち、遺跡はそこに隠されるようにひっそりとそびえている。 繁栄のことなんて全く考えていないかのような、まるで要塞のような遺跡だ。19世紀まで見つからないわけだ。

岩山に穿たれた崖のような細い道が唯一の通り道である。そこを30分も歩くと、岩山に刻まれた立派な建造物が現れる。映画に利用された遺跡エル・ハズネだ。 そこから更に進むと、様々な建築物が見られる。砂漠の真ん中、それも岩山に囲まれた土地にも関わらず、ペトラには3万人もの人々が住んでいたらしい。

ペトラには「隠し部屋に財宝が隠されている」という伝説があり、かつては盗賊により、そして現在は学術的な調査により発掘が行われてきた。 現代でも「財宝」なんていうロマン溢れるものが残っているのだ。 ペトラはまだ1割程度しか発掘が終わっておらず、まだまだ知られていないことばかりだ。

ペトラは遊牧民ナバテア人が、交易で蓄えた富によって築いた都なのだそうだ。 ペトラとは「岩」という意味。かつて財宝を狙った侵入者たちをことごとく撃退してきた、難攻不落の都を指して当時の人々が名付けたらしい。

また驚くべきはその水利技術。都の外壁には「水道管」が延々と備え付けられているのだ。水道管はペトラのある岩山を抜け、外の水源から水を引き込んでいる。 この水道管には、現在も利用されている防水効果のある材料が使用されているのだ。 また、引き込んだ水を使用した噴水、人工池、生きた魚を入れておく生簀、そして客間の床暖房など、様々な仕組みや技術が施されていたそうだ。2300年も前に。 技術は、前に進むだけでは決してないということを思い知らされる。

盗賊に脅かされはしていても、ペトラはギリシャやローマなど様々な国からの旅人を快く迎え、もてなしていたそうだ。 それは、砂漠というより大きく厳しい相手と常に向き合っていた人々にとって、人は同じ環境に共に生きる仲間でしかなかったからではないだろうか。 ペトラへ通じる細道には、かつて誰かが刻んだ「サラーム(平和)」という文字がかすかに残っている。それを刻んだ古代人がどのような思いだったのかは知るべくもないが、今を生きる人々はそこから様々な思いを想起させられるに違いない。


第十六回「〜祈りの響く聖なる地〜 バチカン市国」(2005/7/21)

今週はアンコール放送で、再びバチカン市国の紹介。内容は以前の放送と全く同じ。バチカン市国は国土全てが世界遺産なんだ。以前の放送では聞き逃していたな。


第十五回「〜心をつなぐ壁画〜 ルーマニア・モルドバの教会群」(2005/7/14)

今週はルーマニア北部のモルドバ地方、そこに数多くある教会である。この教会には長年にわたって保たれている壁画が描かれており、7つの教会が文化遺産に指定されている。

モルドビツァ村には、モルドバ教会群の中でも一際美しい壁画を持つ教会がある。羊の放牧やトウモロコシなどの栽培で自給自足に近い暮らしをしているルーマニアの、のどかな風景にその受胎告知教会は溶け込むようにそびえ立っている。 壁一面に鮮やかな壁画が描かれ、16世紀半ばから450年も、風雨にさらされつつも鮮やかな色合いを失わずに残っている。 教会内部も、壁と言わず天井と言わず、絵が描かれていない場所などないかのように、聖人や預言者が描かれている。 外観はそれほど大きくない教会なのに、あのサン・ピエトロ大聖堂にも劣らない荘厳さである。

教会の壁画には、オスマン・トルコ帝国との戦争を描いた絵も描かれている。教会は、この戦争中、家を焼かれたりした人々の避難場所になっていたそうだ。 教会の外壁の絵は、こうして戦争によって苦難の道を歩む人々に心の支えを与えるために、誰にでも見えるようにと描かれたものなのだ。 そして現在も、その地に暮らす人々は教会と、壁画と共に生きている。

教会の壁画にはフレスコ画という技法が使用されている。漆喰が乾ききる前に絵を描く手法である。 しかしモルドバ教会のフレスコ画は他のものとは違い、全く修復・修繕をしないのに鮮やかな色合いを現代に残している。 壁画の青色にはアズライトという鉱物が使用されているが、アズライトは銅を含むため色が変わり易い。研究によるとモルドバの壁画では、木炭や麻の繊維をアズライトと漆喰の間に挟むことで、アズライトの変色を防いでいるそうだ。

モルドバ教会のある村では、今でもこの教会で復活祭などを行っている。 世界文化遺産だろうと関係なく、村の人々には教会は大切な生活の一部なのだろう。


第十四回「〜神秘の奇岩 祈りの大地〜 トルコ・カッパドキア」(2005/7/7)

今週は、不思議な奇岩地帯であるトルコのカッパドキア。自然と文化が混在する、世界でも珍しい複合遺産の一つだ。

広さは2500平方メートル。東京23区がすっぽり入る地帯一面に、奇妙な形の岩が連なっている。大きいものでは20メートル以上の高さにもなり、見るからに異様だ。 背の高い塔のような岩は、地元では「妖精の煙突」と呼ばれているらしい。他にも様々な形の岩がある。

この奇岩地帯には昔から人が住んでおり、岩を掘って家にしている人たちもいる。勿論壁は全て岩で、釜戸や棚まで、全て岩を削って作られている。 また、街の地下深くには地面をくり貫いた空間が存在し、50年ほど前に初めて見つかったそうだ。昔はその地下空間を生活に利用していたのだ。家畜小屋やワイン貯蔵庫、台所など、様々な部屋が見つかっている。 これらは6世紀頃から建設されてきた地下都市で、30個以上もの都市が通路で繋げられた、壮大な生活空間なのである。まさにファンタジーだ。

現在街で暮らしている人々の多くはイスラムの教えに従っている。しかしかつてここに暮らしていた人々は、キリスト教徒であったらしい。地下都市では多くのキリスト教の聖堂が見つかっている。 最も深い地下80メートルの場所で、人々は神に祈っていたそうだ。

これらのことは全て繋がっており、カッパドキアにかつて暮らしていた人々は、ギリシャ正教に従っていたと考えられている。 4世紀の聖人バシレイオスの説いた修道、「人里はなれた土地で、同じ教えを持つ人々と共に神に祈る」ことに従い、岩に囲まれた地下という、当時では究極的に世俗から離れた場所で神に祈っていたのだ。

現在イスラム教が広まっているこの土地に、50年前まで知られていなかったキリスト教徒による地下都市が存在していた。一体ここに何があったのだろうか。 11世紀、カッパドキアはイスラム教徒であるトルコ民族の侵攻を受けたそうだ。しかし、侵略者たちはキリスト教の信仰を認め、キリスト教徒たちは変わらず信仰を続けていくことができた。 彼らは地上にも聖堂を築き、地上と地下とを行き来するようになったという。そして、人が増えて地下では生活し辛くなったのかどうか、やがて地下都市は棄てられ、そのまま忘れられていったのだそうだ。 決して侵略によって失われたわけではないことに、少しだけ安心した。

20世紀はじめ、ギリシャとトルコの間で、キリスト教徒とイスラム教徒との住民交換が行われた。これにより、トルコに住むキリスト教徒130万人はギリシャへ移住し、カッパドキアのキリスト信仰は幕を閉じることになる。

地上には自然に作られた奇岩群、地下には岩を掘って作られた人々の生活空間。きっとこれが複合遺産たる所以なのだろう。

次回はルーマニアのモルドバ。


第十三回「〜熱帯に輝く氷河の山〜 ウガンダ・ルウェンゾリ山地」(2005/6/30)

今週は、山頂が標高5000メートルであるアフリカのルウェンゾリ山地。氷河に覆われた山頂とジャングルに覆われた熱帯の陸を持つ、不思議な土地である。 雲に覆われ滅多に姿を現さないことから「月の山」と呼ばれるらしい。 当然、自然遺産として登録されている。

標高1650メートルにあるルウェンゾリ山地の入り口から山頂まで、往復1週間。マルゲリータ峰はアフリカ第三位の高さを誇る頂だ。 アフリカのような熱帯に氷河があるとは不思議な感じだ。ましてその麓にはジャングルが茂っているというのに。 あまり例があるわけではないが、キリマンジャロなど幾つかの山地には氷河が存在するそうだ。それだけ山頂は寒いのだろう。

ルウェンゾリ山地では標高の高いところで濃い霧が現れる。太陽によって蒸発した水分が山を登り、そのうち霧へと変わっていくのだ。この霧に囲まれた森を雲霧林と呼ぶそうだ。 屋久島でも同じような霧が見られると言っていたが、確かに屋久島で登山した時も霧があっという間に現れてきた。おまけにもの凄い雨も降ってきたが。

ルウェンゾリの登山では、珍しい植物や動物、氷河から流れてきた川や泥地など、様々な風景が見られる。ジャイアントセネシオを言う菊の仲間は高さ9メートルもあり、まるで樹のようだ。温度差が大きい山の気候が、植物を巨大化しているのだそうだ。 とても幻想的な風景で、その自然を見に世界中から登山家がやってくる。

ナイル川の源流はルウェンゾリ山地にある。これは19世紀後半になるまで知られなかったことなのだそうだ。 イギリスの探検家スタンリーがそれを知った時、現地の人々がその山のことを「ルウェンズルル=雪のある山」と呼んでいたことから、ルウェンゾリという名前が付いたのだとか。 今から百年ちょっと前までナイルの源流が知られておらず、まだ探検家が活躍していたなんて少し意外だ。

山頂の氷河の暑さは100メートルもあると考えられている。そして1年に数メートルずつ動いており、そのために所々にクレバスと呼ばれる割れ目がある。かなりの深さだ。 氷河からは常に水が流れ続けてナイル川を作り上げ、そして山頂に降る雪が新しい氷河を作り続ける。まるで生きているかのようだ。 しかし、この20年間で氷河の厚さはかなりのスピードで薄くなっていっているそうだ。このままだとこの20年のうちに消えてしまうのではないか、とも言われている。地球温暖化の影響だろう。 高さによって様々な姿を見せてくれるこの山は、しかしその最も高い場所にある姿を徐々に変えていっている。

次週はトルコのカッパドキア。


第十二回「〜銀が生んだ永遠の都〜 メキシコ・グアナファト」(2005/6/23)

今週は銀が繁栄をもたらした都、メキシコのグアナファト。街全体が世界遺産に登録されている、スペインが興した街だ。かつてスペイン国王に「王冠にちりばめた宝石」と呼ばせた街だ。

盆地にできた街で、丘の上から街を俯瞰することができる。グアナファトを空から眺めると、その歴史を感じさせる街並みがとてもファンタジーだ。近代建築は一切見当たらず、様々な色合いの建物がぎっしりと詰まっている。 この街にやってくる時、長く枝分かれしたトンネルを通り、そのトンネルを「上」に上がると街が広がっているのが面白い。

グアナファトの銀はかつて世界の15%のシェアを誇っていたそうだ。初めて銀を掘り出したのは16世紀。18世紀には銀の産出が最盛期を迎え、その銀は江戸時代の日本で幕府公認の通貨としても使われていたという。

鉱山で銀の鉱脈を探すということはとてもリスキーなことで、借金をして資金を集めても、鉱脈が見つからなければ身の破滅が待ち受けている。 そして一部の運が良い人は、銀の大鉱脈を見つけて一躍大富豪にのし上がり、また街の発展に貢献したのだ。 街にある多くの教会は、その人たちが神に感謝の意を捧げるために建てたもので、バロックを超えるウルトラバロックと呼ばれる様式の建築と華麗な装飾が目立っている。

鉱山の坑道は、最も深いところでは地下600メートルまで掘られている。断面図を見ると、まるでアリの巣のように入り組んでいて、全く人間の底力というのは大したものだ。 坑道の中でずっと穴を掘り続けるという厳しい環境で、しかし今でもそこで働き続ける人がいる。 街がいくら華美に見えても、それを支えるのは過酷な労働を続ける人々なのだ。かつてスペインの植民地だった頃は、今より更に過酷な状況だったのだろう。 その後の独立のための暴動によって、グアナファトは独立を勝ち取っている。

19世紀後半、銀の価格が大暴落した。銀によって発展してきたグアナファトは、しかし現在でもその美しさを保ち続けている。 街の人々、特に人口の20%を占める学生たちのボランティアによって、街は活気を取り戻し、維持してきたそうだ。 教会を修繕したり、街の地下を走る幹線道路を作ったり、街に誇りを持って街のために行動しているのだ。 これまでの放送でも見受けられたことだが、みんなが自分たちの土地に誇りを持って生きている。それはそこが世界遺産に登録されているからではなく、誇りを持ってその土地を守り続けてきたことが、世界遺産を生み出したのだろう。

次回はウガンダのルウェンゾリ山地。


第十一回「〜豆蒸気 世界の屋根を駆ける〜 インド ダージリン・ヒマラヤ鉄道」(2005/6/16)

今週は動く世界遺産、1881年に開通したダージリン・ヒマラヤ鉄道。Toy Train(おもちゃの汽車)の愛称を持ち、わずか2両編成で現役世界最古の汽車が走っている。この汽車は88キロ、標高差2000メートルを8時間かけて進む。 古いというだけでなく、人々の生活や文化を開いたことから世界遺産に登録されたそうだ。

汽車が走る線路は幅わずか61センチ。一般的な線路は100センチを超えるというから、本当に小さい汽車なのだ。遊園地のアトラクションで走るような、まさにおもちゃの汽車という言葉がしっくりくる風体だ。 平均時速20キロ程度、ややもすれば自転車にすら抜かれてしまう。

ヒマラヤの山岳を登る鉄道には、しかしトンネルは一つも無く、ひたすら斜面を登る。ここで重要なのがスイッチバックという方法で、前進と後退を繰り返しながら少しずつ斜面を登っていくのである。 以前箱根の山に行った時、やはり同じような方法で電車が山を登っていたことを思い出した。

ダージリンと言えば紅茶。私も紅茶の中では一番好きなブランドである。 しかし、ダージリンは元々あまり発展とは程遠い山村であったそうだ。インドがイギリスの植民地だった時、避暑地として村を開発していったイギリスがもう一つ目を付けたのが、紅茶の産地として相応しい気候だったのだ。 試行錯誤の末に紅茶の栽培に成功した時、問題となったのが生産した紅茶の輸送手段だった。それまではダージリンまでの道のりは狭い山道しかなかったから。 そこで、紅茶の輸送のために山道に沿って鉄道を開いたのである。これによってダージリンは世界有数の紅茶の産地となった。そればかりか、産業と文化の重要な拠点となるきっかけになったのだ。

今はもう紅茶の輸送としての役割を終えている汽車は、なぜ今も走っているのか。 汽車の沿線には家や学校が多く建っており、子供たちは学校へ通うのに、走っている汽車に次々と飛び乗っていた。特に運賃を要求されることもないらしい。 また、汽車が通った後の線路には露店が並ぶ。車が乗り入れることもない線路は、店を開くのに格好の場所なのだそうだ。 子供たちは手製のトロッコで線路を下って遊び、また生活のために湧き水を目指して容器を積んで上り下りする。 ダージリン・ヒマラヤ鉄道は今でも人々の生活に密着し、親しまれているのである。

汽車のメンテナンスは全てインドの人たちの手によってなされる。一つ一つの部品も、今では販売されていないために、手ずから作られているのだ。こうやって120年もの間、代替わりしつつもずっと動き続けてきた。 過去、赤字経営のために何度も廃線の危機に見舞われたそうだが、地元の人、そして世界20カ国のファンの人たちによって支えられてきたそうだ。 これだけ人々の生活と密着した世界遺産というのは珍しいのではないのだろうか。

来週はメキシコのグアナファト。


ホームへ戻る
考えたこと、感じたことメモへ戻る
第一回〜第十回
第二十一回〜第三十回